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厚木海軍飛行場 リンク集

厚木海軍飛行場(あつぎかいぐんひこうじょう)は、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがる飛行場で、在日米海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設である。航空管制は海上自衛隊が行なっている。 通称厚木基地(あつぎきち)、厚木飛行場(あつぎひこうじょう)。海上自衛隊では厚木航空基地(あつぎこうくうきち)と呼ばれるが、日本の公的資料では「厚木海軍飛行場」と呼称されている。米海軍は空母ジョージ・ワシントン(George Washington、CVN-73)艦載機の本拠地として使用しており、海上自衛隊は対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地として使用している。 米軍内における名称はUnited States Naval Air Facility Atsugi(合衆国海軍厚木航空施設)である。

日本海軍が、主に東京防衛の拠点として1938年に着工、1942 年に完成した。太平洋戦争末期には陸軍の調布飛行場、柏飛行場、松戸飛行場、成増飛行場などと並び、首都圏防空の重要拠点として機能した。 1945 年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決定。しかし海軍302空司令の小園安名大佐は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張し、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなど、厚木飛行場の部隊は反乱状態に陥った。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐などが説得にあたるも、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。 8月18日、小園大佐は当時罹患していたマラリアにより、40℃近くまで発熱し、興奮状態が続いたため、8月20日に航空隊軍医長の手で鎮静剤を打たれ、革手錠をかけられ野比海軍病院(現在の独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)の精神科へ強制収容された。

敷地は綾瀬市と大和市にまたがっているが、両市とも名前の由来となっている厚木市との間は海老名市や相模川によって隔てられており、地理的に「厚木」との関連性が全くない。なぜこの飛行場に「厚木」の名がつけられたのかについては昔から様々に論じられているが、どの説も決定的な説得力を欠くため、これといった定説はない。比較的知られている例を挙げると、 1. 「大和」は当時の最高軍機であった戦艦大和に通じ海軍飛行場の名前には適さないとして、近隣の地名で大山街道の宿場として比較的名の通った「愛甲郡厚木町」から名前を取ったとする説。 2. 海軍が防諜の目的で所在地を欺瞞するため、意図的に違う場所の名前をつけたとする説。 3. 完成当時の飛行場所在地の地名は「高座郡大和村・綾瀬村・渋谷村」であるが、「大和」「綾瀬」「渋谷」のいずれも他の有名な土地(大和國・つまり奈良県、東京市足立区綾瀬、東京市渋谷区)と重複する名称で紛らわしい為、1と同じく「愛甲郡厚木町」から名前を取ったとする説。 4. 建設当時は「大和村・綾瀬村・渋谷村」は農村地帯で、飛行場の所在地は当時神奈川県の中でも交通の便が悪い所である為、飛行場へ案内する都合上、大山街道の宿場町であり、商店や料理屋・旅館が立ち並んでいた「愛甲郡厚木町」から名前を取ったとする説。 などがある。とりわけ1については広く人口に膾炙され半ば都市伝説と化しているが、厚木飛行場完成後の1944年、海軍が奈良県で実際に「大和飛行場」を建設しているため、この説には矛盾が生じる。また2については、飛行場という施設の特徴上、異なった土地の名前を付けた所で敵機が空から見れば一目瞭然の為、効果は疑わしく、他の飛行場でも同様の例が殆ど見られない事からこちらも信憑性が低い。一方、3及び4については、多少の妥当性が認められるものの、実際に命名に関与した者が生存している可能性は極めて低く、現在では真相を知り得る機会はほぼ完全に消失している。 なお、同じ様に相模川東岸にあるにも関わらず、「厚木」を名乗っている物として小田急小田原線・JR相模線厚木駅がある。また、繊維メーカーのアツギ(旧社名:厚木ナイロン工業)も本社工場が海老名市であるが、こちらは厚木基地の知名度を利用して基地名が逆に企業名に採用された物である(詳しくはアツギ#社名の由来を参照)。

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